古い町並
「高山市三町伝統的造建物群保存地区」 |
●天正14年(1586)豊臣秀吉から飛騨国主に任ぜらた金森長近は天神山に高山城を築城し、城下町づくりに着手した。武家屋敷・町人屋敷・寺屋敷に区分され、武家屋敷は高山城下を囲む一帯、町人屋敷は城から一望できる一番町・二番町・三番町(三町)を中心に、寺屋敷は東山地区に設けられた。
高山の町づくりは、金森藩時代107年間は上方窟文化の影響を色濃く受け、天領となった元禄5年(1692)以降は江戸文化の粋をとり入れて発展し、社会的・文化的基盤を確立しながら飛騨経済の中心としての役割りを果してきた。三町は、度々の大火災にみまわれながらも天正年間の街区のまゝに、江戸時代の町屋そのまゝの姿を現在に伝えてきた。保存指定地区には145戸の家があるが、そのうち80戸が江戸末期から明治初年の建物となっている。飛騨は木材生産が盛んで、尺〆1本の長さを4,39mと定めて伐採した。この柱の長さが町家の最高軒高となり、三町地区の家々の表側の軒の高さは4,2M前後と低く、統一感のある美しさをかもし出している。軒の出は深く前に張り出し、小びさしを抱えこんでいる。普通、入口には大戸を付け入口以外の柱間には上げしとみと腰付障子が建てられている。その外側には板差しか台輪差しにした出格子が設けられている。地方色豊かな小びざしには、箱びざしを設け商家では屋号の入った「のれん」を下げたりした。さらに日除けびざしを張り出した商家も多い。2階の柱間には板連子か板格子をはめ込み、木部はすべて紅殻に硝煙(すす)を混ぜて着色し、漆刷毛洗い油か菜種油で着色止めをした。腕木鼻をゴフンで白く塗ったのは江戸時代に良材を隠すための工夫であったと伝えられるが、木部の紅毅色との対比が落ちつきを増し、統一感のある外観構成となっている。 三町地区は、重要伝統的建造物群として昭和45年に国の指定を受けているので、同地区の家を修理したり修景(町並に調和する建物の形にする)したりする場合には、建物の高さ、講造など厳しい規制がある。許可を得て修理修景する場合には補助金が交付される。(国50%・市20%・県10%・本人20%)また、町並の景観上、20年前に電柱をすべて撤去し、軒下配線となっている |
〔町並の特徴〕 |
●城下町町人屋敷の名残りが生きている。
●張り出した軒(大屋根)と控え目な小びざし。
●入口の大戸と小さな引き戸。
●母屋=中庭=土蔵(間口が狭く、奥行が長い)
●木造切妻造り、10分の3以下の緩やかな屋根の勾配。
●1階の紅殻格子(高山格子)と2階の板連子
●家の前を流れる側溝(防火用水・雪流し |
(1)飛騨民俗考古館「民営」 |
古い町並の中にあって戦国武家屋敷をしのばせる構造。昔、高山城主金森家の御典医であった上田玄泰の住いと伝えられる。吊天井や忍び窓、宮川にまで通じているといわれる井戸の抜け穴などがある。土蔵には、飛騨地方各地から出土した土器・石器をはじめ、美術工芸品、古民具などを展示している。 |
(2)藤井美術民芸館「民営」 |
●高山城の二之丸御門を模したという山門風の入口が目をひく。江戸万流(万次郎という江戸から来た左官)の古い形式をそのまゝ再現して建てられた総ひの木造りの土蔵内に、安土・桃山時代からの美術工芸品、飛騨の民族資料など約2,000点が展示されている。 |
(3)八賀民俗美術館「民営」 |
●八賀家7代にわたって収集されてきた絵画・武具などの古美術品をはじめ、貴重は古文書などが展示されている。中でも、全国に5つしかないといわれるキリシタン鋼鐘に象徴される隠れキリシタン関係の資料は見こたえがある。 |
高山陣屋
「国指定史跡」
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高山3代城主金森重頼により金森家下屋敷として造られ、元禄5年、出羽上ノ山に転封となるまで使用されていた。天領となり初代の代官として高山に出張した伊奈半十郎忠篤により、元禄5年10月、こゝを高山陣屋と定められ、以後175年間、25代にわたる代官や郡代が江戸から派遣され、飛騨全域の行政府となった。明治に入ってからは県庁(高山県)郡役所・支庁・県事務所など地方の役所として使用されてきたが、昭和44年、12月1日、県事務所が新庁舎に移転後、県立の博物館相当施設「高山陣屋」として復元保存することとなった。式台のついた玄関の壁には最高の格式を表わす青海波の文様を遺し、お白州や御用場、吟味所、大広間など全国唯一の遺構である。裏手に在る御蔵(米蔵)は高山城の三之丸から移築されたもので、昔のままの姿を伝えており、百姓たちの血と汗の結晶である年貢米を納めた蔵である。内部には、天領時代を物語る諸資料が展示されているが、中でも大原騒動(百姓一揆・安永2年1773)の際処刑された本郷村善九郎の遺書は涙をさそう。 |
大原騒動 |
明和8年(1771)から天明8年(1788)の18年間にわたる飛騨史上最大の百姓一揆。
第12代の飛騨代官(後に郡代)大原彦四郎紹正は、幕府勘定奉行の命により阿田野郷や小坂郷山方衆に対して元伐休止や御救米廃止を実施したり、飛州年貢米三千石の江戸直納、農民の強い反対を押しきっての総検地の実務などにより、山方衆や農民たちの反感をつのらせた。 |
(1)明和騒動
(明和8年) |
元伐休山に反対する山方衆数百人が国分寺集会を開き、総代として江戸へ嘆願に出た者の報告を聞き憤った群集は代官に協力した町人宅や土蔵の打ち壊わしをする。54名投獄 |
(2)安永騒動
(安永2年) |
新田のみの検地と偽わって総検地を実施した代官への憤りは、上宝村本郷と大野宮村に大集会を開き、江戸の老中や勘定奉行などへの直訴に代表を送るなど、飛騨全域に一揆が広がる。(白川郷のみ不参加)
代官と幕府は隣国五藩に命じ2,500人の出兵をもって鎮圧する。
●獄門打首24人 ●入獄死12人 ●流島17人 ●鎮庄時の死者49人●追放罰金数千人
この綴動は一方的に農民側の敗負に終った。
※ 本郷村善九郎の話 上木甚兵衛の流島 五港(苗木・大垣・八幡・岩村・富山) |
(3)天明騒動
(天明8年) |
第13代の郡代となった大原亀五郎正純は私利私欲に走る事が多かったようである。
天明年間は不凶続きで農民の暮しは困窮していたのに私腹を肥やす事例が多く地役人や名主たちの不信をつのらせた。解顧された地役人や失職した名主たちは度々江戸に代表を送り老中松平越中守門内に密訴状の投入を繰り返えした。幕府では郡代の行跡を調べるため亀五郎を江戸へ召喚し、検見役を高山に派遣するなどして実状の調査にあたった。その結果、郡代大原亀五郎正純は伊豆八丈島へ遠島他、役人にも数多くの死罪や追放の裁定がなされた。
※ 亀五郎の陶太郎の孝養談と八丈記大原彦四郎の行政「元伐休止や総検地」は、元禄年間から財政困難となっていた徳川幕府の天領政策と領民との 板ばさみになっていたようにも考えられている。彦四郎自身は文人であり飛騨の文化向上に多大の功績がある。 |
高山祭 |
高山祭といわれているのは、4月14・15の両日に済行される日枝神社(山王)の例大祭と、10月9・10の両日に済行される八幡宮の例大祭の総称である。
昔から、春の山王祭・秋の八幡祭として広く飛騨びとの心を支えてきた民俗的行事であったが、昭和27年、この二つの祭が「高山祭」として国の重要民俗文化財の指定を受けて以来、高山祭という表現が定着し、祭屋台と共に全国に知られるようになった。
高山における祭の最古の史実としては、享保3年(1718)に高山陣屋の地役人上村木曽右衛門の書いた「高山八幡祭礼行列書」を、天明6年(1786)に写した柚原三省の日記に記されている「正徳六年、年号享保元年に改まり、八月正八幡宮御祭、八幡氏子中通り物有之、ただし通り筋八幡町下り左京様川端上り、北寺内下り立寺内上り御坊坂上り、向屋敷へ御見に懸け、上下共城坂通り参り、帰りに丈右衛門坂下り、鍛治屋橋横丁迄参り二之町下り新町迄参り、与兵衛横丁より川向うへ越し一之町上り、三之町下り御旅所御座候・・・」と御神事行列の道順が示めされているが、御榊・山車・神楽・屋台四台・笠鉾二台等々四十八番の出しものが行列を飾り、総勢数百人に及ぶ大行列であったことも記されている |
◎奉行祭 |
金森藩時代(元禄5年以前)八幡祭や山王祭には金森国主より祭奉行2名が派遣され、神事や祭事のすべてを見守っている。
この祭式は天領以降にも引縦がれ、祭礼当日は代官所が休日となり、御神事行列渡御の折には郡代自ら幣はくを捧げて神前に参進し参拝する習わしとなっていた。 |
◎農耕祭と町民祭 |
元々祭礼は収穫祈頗や収穫感謝にもとずく農耕祭の性格を強くもった農民たちの行事として生じたものであろう。城下町が発展し、職人や商人たちが多く住むようになると、商売繁昌や健康安全を願う町民の祭、町民祭の性格を強くしてきた。高山祭は町民祭として発展し守り伝えられてきた祭である。 |
春祭ー山王祭
例祭4月14・15日 |
高山の春祭は、高山市城山に鎮座する日枝神社(山王様)のである。
永治元年(1141)に三仏寺城主 ・飛騨守平時が日吉山王より勧請したのが始めとされる。
日枝神社は金幣社に列せられ、安川通りを境とした 高山市南半分の地の氏神となっている。例大祭の祭事は、3月1日の屋台順番抽せん祭から始まり、 この日、本殿における抽せんにより祭礼当日の屋台曳行順番が決められる。4月14日は試楽祭であり、
社殿において奉告祭・奉幣祭のあと午後に発幸祭を行う。御神幸は神輿に御分霊を奉遷して大榊を先頭に 獅子舞・大太神楽・闘鶏楽一文字笠に裃姿の警固など数百人の行列がつづく。
屋台は午前から神明町に曳き揃えられ御神幸の神輿を迎える。神輿が陣屋前の御旅所に到着されると屋台も順次陣屋前に 曳き込まれる。夜になると屋台蔵と屋台に灯をともし曳き別れとよばれる夜祭りがはじまる。
各屋台に百数十個の屋台提灯を取り付け「高い山から・・・」の曳き別れうたをうたいながら所定の町筋を一巡し それぞれの屋台蔵に 納められる。
15日は本楽祭で祭りも最高潮に達する。午前から陣屋前に曳き揃えられた 12台の屋台のうち、龍神台他2台のからくり人形の技が数回披露される。御分霊は午前から御旅所を出発され、前日の行列に台名旗を立てた代車を合わ氏子内を巡行して神社に還御される。夜は、寄びひきで知人宅を廻り、
洒や祭料理をよばれた人たちの群が町々にみられる。 |
秋祭−八幡祭
例祭10月9・10日 |
高山の秋祭りとして親しまれる八幡祭りは、仁徳天皇65年、2面4手4足の両面宿儺という怪人を
波根子武振熊命に命じて征伐させた際に、戦勝祈願としてまつられたと伝えられる桜山八幡宮の例大祭で、 祭神は応神天皇である。
祭例は8月1日の祭事始祭に始まり、この日には本殿における奉告祭のあと、宮司より本年度の例大祭を 司る年行司・副年行司の委嘱が行われる。10月7日夜は本殿において試楽祭が斎行され、そのあとで
各屋台組への御幣のきり替えと屋台順番の神くじが行われる。
10月9日は例大祭、神社本庁遣幣使の奉幣・大太神楽・浦安の舞、境内では獅子舞や闘鶏楽の奉納があり、 氏子内外参百人余の参列者によって盛大に斎行される。11台の屋台は、神楽台とからくり奉納の布袋台が
境内に、他の9台は表参道大鳥居前の記念道路に曳き揃えられる。夕刻、屋台提灯に火をともした屋台は、曳行順に江名子川べりから三之町を通り安川通りに曳行される。これは「よい祭り」といわれ、昔は、御神幸行列の中に屋台も加わって氏子内を曳行し、夕やみの迫る時刻に
なると屋台提灯に火をともして曳いた事に由来する。
10日は早朝の御神幸祭から祭礼は始まり、消防手・大榊・社名旗・獅子舞・闘鶏楽・四神旗・神官・錦旗・ 御鳳輩・雅楽・台名旗付代車・一文字笠に裃婆の警固等、数百人の御神幸行列が氏子内を巡行する。
さながら時台絵巻をみるようである。
高山では、各戸ごとに裃を所有し、祭礼の2日間は祭りに奉仕する 「しきたり」がある。豪壮華麗な祭り屋台と共に、こうした氏子民の伝承文化を継承する姿は貴いものと
されている。 |